『この器では受け切れなくて』 を読んで ~資本主義社会の矛盾

前回は、まりや食堂の訪問記を書きましたが、今日は、まりや食堂の活動を続けてきている牧師さんの書かれた本、『この器では受け切れなくて: 山谷兄弟の家伝道所物語』から印象的なところをご紹介します。山谷というところで、資本主義社会の矛盾を見つめ続けてきた牧師の「キリスト教と政治」への冷徹なまなざしです。

この器では受け切れなくて: 山谷兄弟の家伝道所物語 (2012/12/11) 菊地 譲
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●著者紹介 1949年生まれ。1973年、青山学院大学大学院文学研究科聖書神学専攻修士課程修了。1979年から山谷に入り、日雇い労働者に。山谷伝道開始。巡回炊き出しから、まりや食堂開設へ、生活保護、アルコール依存症の人に、恒常的に食事を提供したい、との思いから、カップ酒と同じ200円の食事を提供。やがて弁当屋に。

 ■日雇い労働者:民主主義社会と競争社会
午前4時に起き、通りで手配師が来るのを待つ。企業は手配師を通して日雇い労働者を雇う。景気の安全弁の役割を社会的に背負わされたスケープゴートとしての存在。アルコール、野宿、貧困、精神障害。山谷には、未解決の事柄がたくさんある。これが、現代のフリーターや派遣社員に引き継がれている。労働者は、生産手段をもっていないゆえに、企業家に隷属。民主主義社会は、自由平等といっても、自由であるゆえに熾烈な競争社会。競争にまければ、なぜ貧困なのか。たとえば、両親の早死による貧困。幻聴や難聴、精神障害ゆえの貧困も少なくない。命が軽く扱われる飯場生活。敗者の生活。この人生を自己責任として、個人のせいにだけにすることができようか。

 ■ロールズの「正義論」より
自分がこの社会に生まれるとき、どんな社会を希望するか。一番、貧しい人が救済されるような社会制度を希望するのではないか。能力がたくさんあるゆえに有利な結果を獲得した人は、その結果を最も不利な人間の利益を最大にするために使わなくてはならない、と考えるのではないか。なぜなら、自分が最も立場の悪い状態に生まれるかもしれないから、自分の状態を保障する制度を選択するだろうという。 おもしろいのは、イデオロギーではなく、合理的な理詰めの結果こうなるというところ。

 ■政治への参加
現代においては、ロールズのような視点に立ち、政治に関わらなくてはならない。一市民として、有権者として選挙を通して、またさまざまな市民運動を通して政治、行政に働きかける。政治の貧困がこのような貧しさを生じさせているのだから、企業が過度に利潤追求することがないように、全ての人に再生産できるほどの収入を保障する制度を作り上げるために、それぞれの仕方において政治に参加していく必要がある。一人で、立ちいくのに困難な人には、行政に対して生活の保障等を要求し、私たちは、その人が躓かないように、支え続けることが大切。

 ■キリスト教の牧師として、キリスト教と政治を見る プロテスタント:禁欲主義が合理的精神を生んだ。その合理的精神が資本主義の精神として受け継がれた。富を得るための営利性が残った、という点で、資本主義の内包する「毒」にはキリスト教にも一端の責任がある。
競争原理の社会の中で、再生産にも満たない賃金に抑圧された人々がホームレスになった時、それを支えるべきは、政府のセイフティーネット。それをキリスト教がやれば、政府の怠慢の尻拭いをすることになり、結局は今のひどい資本主義体制が増長することに手を貸すことになる。資本主義の発展にキリスト教が一枚加わる危険性があることを意味する。 だから、善意の奉仕だけでなく、政治への厳しいまなざしを緩めてはならない。
民主主義は不安定なものだが、いつでも政権交代ができるような体制に日本の民主主義が成長するためには、地域や地縁や義理などで政治家を選ぶのではなくて、本当に日本の政治を任せられる見識のある人を選ぶことができるように成熟することが日本人にいま求められている。

まりや食堂