昭和な暮らし

今年は、89歳(大正15年生まれ)の義父と86歳(昭和4年生まれ)の義母が相次いで他界しました。

家を少しずつ片づけていると、戦争をはさんだ昭和という時代を思い起こさせられます。戦後の物不足を生きたせいと、思い出が詰まっていることもあって、捨てられなかったのでしょう、古いものがたくさんありました。

捨てられないものたち

洋服:ほとんど手作り・節約・工夫に励む

義母は手先が器用で、家族の洋服をたくさん作っていました。
型紙も布は小さな端切れさえ、丸めてとってありました。
タオルをはぎ合わせて、風呂上がりの湯上りガウンまで手作りしています。

あるカーディガンには、こんな説明書きがついています。
「終戦後(昭和21年)、毛系(寄せ集め)を黒く染めて赤い編み込み模様を入れて作った思い出のカーディガン」。確かに、かなり継いで編まれています。

 

 

 

 

 

 

終戦直後に作ったカーディガン

小さな紺のセーター。2人の息子に着せた(55年前)あと、年の離れた甥に回されましたが、かわいいからと叔母が使い終わったものをまた義母に返してくれたものです。


 

 

 

 

 

小さな息子たちのために編んだセーター

 

和服コート
これも母のお手製。当時は学校の参観日など、和服をよく着たそうです。

 

 

 

 

 

 

お手製和服コート

壊巻布団
これは嫁入り道具。

 

 

 

 

 

 

壊巻布団

富山の薬箱
も う50年以上も前から今まで、両親のもとには年に2回、富山の薬売りが来てくれていました。なくなった薬を補充してもらうというやり方なので、無駄がなく そのときそのときで、相談にものってもらえるので安心だったようです。数十年の付き合いですから、すっかり顔なじみになって、健康談議を楽しんだのではな いでしょうか。子どもたちは、紙風船をもらえるのを楽しみにしていたようです。先日、両親が亡くなった後に来てくれた薬屋さんは、お母さんはのど飴の味を 気にいってくれていました、などといいながら、長いお付き合いを懐かしんでくれました。

 

 

 

 

 

富山の薬箱。

この中にきっちり薬が入っていました

風呂敷
様々 なものが、風呂敷に入れてしまわれていました。大小様々な風呂敷がたくさんありました。会社名が入っていたり、○○記念と書いてあったりするので、当時 は、ご挨拶や記念品に風呂敷を贈る習慣があったのでしょう。義母の父は呉服商だったので、いつも反物を風呂敷に包んで肩に担いで、まわっていたと聞きまし た。確かに風呂敷はそのものの大きさや量に合わせて、きっちり包むことができる、優れものだなあ、と改めて認識しています。

 

 

 

 

 

 

風呂敷



季節の伝統行事

お正月
暮れにおせちの用意とお雑煮の準備をして、元旦は家族みんなでお屠蘇を飲んで、お雑煮や焼きもち、そしておせちをいただきます。

お盆
お迎え火をたいて、ご先祖様に来ていただくように、ナスときゅうりで馬をこしらえ、仏壇に五目寿司、そうめん、天ぷら等を作ってお供えします。そして送り火を焚いて、お送りします。

暮れ
家族総出で、大掃除。天井のすす払い、玄関の水洗いは父から息子たちが受け継いだ役割。

その他、池上本門寺のお千部、お会式、近所の稲荷神社と共に初詣にも必ず出かけました。

漬物作り
庭 には3本の梅の木があって、年によって出来がちがいますが、多い時は20キロも取れます。梅干しや梅シロップを作りました。夏には茗荷が取れるので冷奴に たっぷりかけて、ふきがはえたら、手を真っ黒にして灰汁をとって、煮つけに。母は漬物が好きで、ぬか漬けは欠かすことがなく、らっきょう漬け、冬には白菜 漬け、大根のゆず巻を作ったり、と家族を季節の美味しいもので楽しませてくれました。

高度経済成長時代

昭和29年、初めての子どもを抱いて、海をながめている両親です。終戦からものすごい勢いで復興が進んでいた当時、将来に希望を抱いていたことでしょう。
そ ういえば、義母はお見合いで「富士通」に勤める義父と結婚したのですが、聞いたこともない会社名だけど、だいじょうぶかしら?どんな運送会社なのかしら、 と思ったそうです。昭和39年の東京オリンピックでは、義父が電光掲示板の担当でオリンピック会場には足しげく通ったそうですが、その頃からでしょうか。 富士通はコンピューターの会社だと知られるようになったのは。

あらゆるインフラ整備が急ピッチで進んでいる時代でしたが、その頃、呑川の護岸はまだ低く、池上2丁目の我が家は2回も床上浸水を経験したそうです。畳を上げて汚れた床を拭くのは大変だったそうです。

家族が向かい合って過ごす行事が当たり前に毎年繰り返されること

 地域の伝統的な行事、季節の行事が暮らしのアクセントになっていました。その中心に家族の衣食住を一生懸命考える義母がいたことを改めてしみじみ思うものです。義母の俳句をいくつか。

「とぎ汁を茗荷にかけて家事の夏」 いつも米のとぎ汁は庭の植物に撒いていました。

「父と子の実梅おとしの晴間かな」 毎年、義父と息子が竹竿持って、梅落とし。

「古き佳き都をいまに踊唄」 池上本門寺の盆踊り。

「雨に舞ふ会式纏のしぶき受く」 池上本門寺のお会式。けっこう雨が多いのです。

「昼風呂をたつる勤労感謝の日」 義父を大切にしていました。

 

 

 

 

 

 

子ども抱いて海を見ている夫婦