駒沢プレーパークと天野さんのお話

2017年8月22日 18時42分 | カテゴリー: 子ども, 子育て支援, 都市環境・子ども

子どもの人格形成には「遊び」は欠くことのできないもの・・・
しかし今、自由な遊びの機会が奪われていないか。

子どもの頃にどんなことをして遊んだか、と尋ねると年配の人ほど自由奔放な遊びを経験していたりして楽しそうに語ってくれる。遊びが人を逞しくしてくれることはまちがいないが、今、子どもたちの遊ぶ環境は、どうだろう。自由に創造的な遊びを喚起するような場所と材料があるだろうか。そして仲間とゆったりとした時間。
 
かつてデンマークの廃材置き場で子どもたちが生き生きと遊ぶ姿をみて、提案された公園の新しい形、プレーパーク。もともと感性豊かで想像力あふれる子どもたちには、大人のお仕着せの公園ではなく、自然の中の木や土や水が、豊かな遊びを生み出す大事な素材であり、自由に冒険できることが重要である、という考えに基づくのが、プレーパークであり、世界中に広がる。一切の禁止事項がなく自分で考えて、試してみる、自分の責任で遊ぶということが存分にできる、このことが、子どもの人格形成、「自己の確立」にどれほど影響していることか。
 
しかし今、子どもは社会の中で常に管理され、「安全」を求めてという大義名分のもと、自由な遊びが奪われる中で、抑圧や孤立、そして無意識のうちに「自己喪失」にもつながっているのではないかという危惧を感じるのである。また保育園建設の反対運動にみるように社会の子どもに対しての不寛容さは、子育て家族への圧迫感、閉塞感となり、親子の息苦しさがさらに子どもをめぐる問題、虐待や子どもの不登校、いじめや自殺、さらには親の鬱病や夫婦の不和にもつながっていかないか、大いに懸念するところである。
 
もう遅いかもしれないが、もう一度“子どもは社会の宝だ”という認識に立ち、子どもにとっての遊びの本来的な意味を社会全体で確認していく必要があるのではないか、社会の中の子どもを介しての「分断」をどうすれば改善できるのか、このような問題意識から日本で最初のプレーパーク、羽根木プレーパークの初代プレーリーダー、日本冒険遊び場づくり協会理事の天野秀昭さんに駒沢プレーパークを案内していただきながらお話を伺った。(2017年8月9日)

 

駒沢プレーパーク

学芸大学の駅から歩いて10分ほど。住宅地から細い道を入っていくと草ぼうぼうの細長い敷地の公園がある。真ん中にプレーリーダーたちの基地である小屋と、かまどがある。

駒沢プレーパーク

ウオータースライダーが2つ、大きな木にかけてあるツリーハウス、それから材木小屋や工具入れ。もちろん全て手作り。

 

 

 

 

 

 

 

子どもたち手作りのウォータースライダー

 

 

 

 

 

 

 

ツリーハウス

 

あとは、一見すると林のように木がうっそうと茂っている。子どもにとっては探検気分が味わえるだろう。梅の木や桜の木などなど。基地にするのにちょうどいい枝ぶりの木がたくさんある。

 

 

 

 

 

 

 

基地になる木の枝

 

もう30年近く前、草ぼうぼうの何にも使われていなかった土地を天野さんたちが持ち主に直接交渉して貸してもらったそうだ。地主さんは「子どもは土と共に育つ」と言って喜んで貸してくれたばかりか、近くの畑で作った芋を子どもたちにくれ、子どもたちは「芋おじさん」と呼んで親しんだそうだ。そのうちに区が都市計画公園にするが、形は変わらずプレーパークとして今に至る。

 

 

 

 

 

 

 

プレーパークの看板

 

プレーパークとは、禁止事項がない、何をやってもいい遊び場。どろんこ、木登り、木工、かまどで料理。だからこそ地域住民へ理解を求める活動、話し合って公園を作っていく活動、子どもたちとの話し合いが重要で、プレーパーク作りのプロセスこそが壮大な大人の遊び、だという天野さん。

 

 

 

 

 

 

 

プレーワーカーの小屋の前に立つ天野さん

 

子どもたちがかけまわるとすぐ雑草もなくなる。雑草をよそからもらってきて植えているほど。でこぼこ、草ぼうぼうの地面を全速力で走るという子どもたち。子どもの環境に適応する力は計り知れない。障害物のまったくない平らなところばかりを歩いている子どもたちとは体のつくりが変わってくるだろう。瞬発力、危険を察知する能力は、自らの身を守るために必要な能力ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

廃材置き場と工具入れ

 

遊ぶということと主体性

遊ぶことで、「私」という「主体」が創られる。この子の主体者はこの子しかありえない。
自分で考えて遊ぶ、やってみる、ためしてみる、プロセスそのものが遊び。遊びには、目的や目標がないから“失敗”という概念もない。何の禁止事項もない自由な空間だからこそ、自分たちの独自のルールを創り出して遊ぶ。遊びは考える人を育て、主体性を育てる。やがては社会課題をどう解決していくか、を考え、社会の中のおかしいと思うことをおかしいといえる強さと感性を持った人へ。いわれたことをやるだけの生活をしていると“考えない子ども”になるのでは?

 

 

 

 

 

 

公園を利用する人へのよびかけ

 

感情を表出する場

感情が抑圧され、人との関係がうまく作れなかった子ども、暴力的(なぐる、蹴る、つばを吐く)で児童館を出された子どもが、プレーパークでは、拒否されなく受け入れられ、自由に遊ぶ中で、やがて自然な自分になれた。小さい子どもの面倒をみるまでになった。

 

外遊びの重要性

あそびは子どものビタミン(小児科学会)。非認知能力の開発期・子どもの認知能力は知識だけではない。非認知能力とは、IQ(知能)に関係なく、「意欲」「人を思いやる力」「最後までやり遂げる力」「コミュニケーション能力」など、データでははかりにくいが、いわゆる「生きる力」であり、自由な遊びの中でこそ培われる。

 

子どもの権利

改正児童福祉法には「権利」という言葉が盛り込まれた。
「子どもの参画」の現実化はプレーパークが最高レベル・7段階の一番上(ロジャーハート)。
プレーパークでは、大人も含めて多世代の中で話し合いをし、意見を対等に言える。この経験が、人にものおじしない、逆境に負けない、切り抜けていく力となる。思ってもみないことに対応できる、生きる力、危機管理能力。

 

都市化

高度に都市化してきた現代は、予測不能なことを嫌う(リスクを避ける)社会であり、すべてをシステム化しようとする。子どもは最も予測不能な存在。
学校、そして家さえも、「計画」だけを遂行しようとする。予測不能なことを排除する文化は、人をルールの中に抑え込む→生物としての人間、脅かされている。

 

ケガについて

起こるかもしれないケガのことで日々の子どもの育ちを阻害してよいのだろうか。安心安全をいうのなら、子ども自身に力をつけることが大事。子どもの心を折ることには目を向けず、やりたいことをさせないというのはいかがなものか?
ケガはマイナスばかりではない。痛みを知ることであり、次にはケガをしないようにと、注意力、集中力がつく。プレーパークでケガをする子どもは初めて来た子どもばかり。毎日来て、遊び慣れている子どもはほとんどケガをしない。

 

時代の変遷と子ども

80年代 非行、暴走族、校内暴力
88年  暴走族が解散させられた
少子化と都市化→大人にはむかうことができなくなった
守られるのではなく、監視、子どもの動きをチェックする大人
90年     いじめ(大人・社会への反抗のエネルギーが子ども同士に向けられる)
子どもを鍋に入れてグツグツ煮ている状態→やがて圧力なべに、中でつぶし合い
95年     自殺(大人・社会に見放されたという意識)
2000年代 いじめたら出席停止処分
→本質をみていない
2000年代 自傷行為、生きていることを実感できない→自滅
大人が理想とする子ども像を子どもに押し付ける→子どもがおいてけぼり

 


 

数十年前からプレーパークの魅力に取りつかれていたが、今ほど切迫感をもったことはない。子どもは日々、幸せでなくてはならないのに、社会は子どもから「子どもの時間」を奪い、結果、子どもの自信や意欲、そして感性を育み損ねてしまっている。泥の感触に浸りながら、水しぶきをあびながら、工作をしながら、自分自身になる時間を積み重ねること。うれしい、気持ちいい、悔しい、・・という感情を思いっきり表出すること。“遊ぶこと”=“生きている実感”を持つことがやはり子どものしあわせであること、そして未来の希望であることを天野先生からまた教えていただいた。