昭和10年頃の日本一の海苔の生産地、大森。 『海苔のふるさと館の10周年記念』

2018年4月16日 08時21分 | カテゴリー: 活動報告, 産業

4月15日、海苔のふるさと館の10周年記念』が行われました。式典に続いて、和太鼓の演奏。その後、資料館での説明をいただきました。

 

 

 

 

 

 

 

和太鼓の演奏(和太鼓 大元組による)

 

歴史

江戸時代、享保年間(1716年~)に始まった海苔漁業。品川から大森に広がる遠浅の海に「木ひび」を立て、種を植え付けて、冬(11月~3月)に収穫。船で収穫に行ってどんなに冷たくても素手で、摘み取りをした。

 

 

 

 

 

 

 

「ひび」を立てているところ

 

右袖が短いのは袖がぬれないようにしたため。

 

 

 

 

 

 

 

右手の袖が短い上着

 

採ってきた海苔を細かく刻んで紙すきの技術を応用した木枠に流し込んでの成型の後、天日で干す。

 

 

 

 

 

 

 

天日干しした海苔をはずしているところ

 

昭和10年までは日本一の生産量。しかし日本は工業化の道を進みはじめ、明治終わりからは漁場を運河にして工業地帯を形成しようとする。漁師たちは反対運動をして抵抗するが、戦後さらに、工業化が進み、工場排水や生活用水が川から海に流れ込み、水質悪化は海苔の生産に大きく影響した。沿岸部の埋め立て計画、昭和39年の東京オリンピックに向けての開発に応じることとなりついに昭和37年に漁業権を放棄、38年春には生産を中止する。

海苔業の人たちは資料保存会を作り、道具類を自主的に集め、その保管を大田区に頼んだ。このことから郷土資料館が作られ、平成20年開設の海苔のふるさと館に引き継がれた。かつて海苔業をしていた人たちは、ここを故郷のように思い、孫をつれてきては「ここに名前があるでしょ」と一族のルーツを伝えるそうです。

 

「海苔船に乗っていたよ」 86才の田中さん

昔、海苔船にのっていたという方から話を聞くことができました。ちょうど「写真でめぐる海辺の街の記憶」という写真展が開催されており、その写真を見ながら説明してくださいました。

 

 

 

 

 

 

 

元海苔漁師の田中さんと

 

「この寄来丸っていう船は東造船で作ってもらったオレの船だよ。兄さんといっしょに作った船だ。28歳の時。ほら、ここにいるのがオレ。この日は浸水式で、浸水式は“寅の日”って決まってんだ。寅は「千里を行って、千里を帰る」っていうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

寄来丸

 

大体9月24日か25日あたり、種つけに木場や永浦、牛込あたりに行く。川の近くで真水が入ってくるところとそうでないところでは種の種類がかわるんだ。塩の強いところは貝殻の中からでてくる胞子がでるのが早い。潮の流れが大事。同じ流れが40分。その間に種付けをする。月を見たり、雲行きを見れば潮の流れがわかるんだ。ちょうちょ雲が東にあると15メートルの風、右にあると10メートルの風。北風のことを「なれ」といって、東風のことを「こち」という。

 

 

 

 

 

 

 

海苔船

 


田中さんは、近隣の小学校に海苔の作り方を指導に行かれたりして、地域の歴史を伝える活動をされているそうです。この日ももっといろいろと、道具の使い方なども教えていただきましたが、覚えきれませんでした。それにしても、風や潮の流れが空や雲の形でわかってしまうとはすごい、と思いました。地域の歴史や文化とともに、海を見つめて暮らしていくことで培われる感性、人間の自然と共生する能力の果てしなさを教えられました。