「虐待を考える」 虐待当事者のお話と写真展『インタナリバティ プロジェククト』

2018年11月14日 16時13分 | カテゴリー: 女性, 子ども, 子育て支援

虐待がどんなものか、知っていますか。
虐待を受けた子どものその後の生きづらさを知っていますか。

聖フランシスコ子供寮にて「虐待を考える」 虐待当事者のお話と写真展 「インタナリバティ プロジェクト」
 

写真家・長谷川美祈さんが「虐待の写真集」を制作。その写真の展示と被虐待者の話を聞く集いでした。なぜ長谷川美祈さんが「虐待の写真集」を制作したか。なぜ被虐待者の話を聞く集いを開催したか・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポスター

 

きっかけは、自分に子どもができて、産後うつになり、子どもに虐待してしまうんじゃないかとの不安から、“虐待”に関心を持ったこと。写真集を作ったことで、虐待へのイメージが変わった。貧困、孤立、アパートとは限らない。豪邸だってあるし、ご近所もある、きっと子どもの声は聞こえていたにちがいない。自分の経験からは「虐待は特別な人がやるとは限らない。だれにでもありうること」、だからこそ、この不安を持ちつづけていきたい。写真集は児童憲章が発効されて66年たったことを記念して66冊作った。開いていかないとわからない作りにしてある。「簡単にわかった気になってはいけない」というメッセージを込めた。被虐待者がどんな虐待を受け、今、どう生きているか・・・虐待の実際を聞くことはとても大事です。

 

 

 

 

 

 

 

虐待の写真と

 


 

子どもの頃、虐待を受けたという方々から過去と現在のこと、お聞きしました。
みなさん30代、40代でしょうか。

虐待当事者の語りから

橋本さん

5歳の頃、両親が離婚し3歳の弟といっしょに父に引き取られる。身体的な虐待は日常的で、殴る、蹴るは当たり前だった。弟は殴られて風呂に沈められて命を落とす。自分が発見する。救急車が来るが、事故として処理されたようで、父はなんの取り調べも受けていない。
6歳のころに、父が再婚。再婚相手からも虐待を受ける。なぐる、蹴るの他にアイロンを押しつけられたこともあり傷が残る。冬に裸で外に出されたり、正座をさせられ、ひざを踏まれることもあった。小学2年では九九をなぐられながら、覚えさせられた。暴力的な性格になり、転校が多かったので学校では友だちはできなかった。義理の弟が生まれると虐待はさらにひどくなり、食事も作ってもらえなかった。それでも親には愛されたかったし、認めてもらいたかったので、テストで100点をとることを目標にして、達成したが、親は見もせず捨てた。

友だちの家に行ったら、自分の家との違いに気が付いた。(なんでこんな家に生まれたのか)と、小学6年生で自殺を考えた。飛び降りたり、ナイフで手を切ったが失敗。家ではご飯を作ってもらえないので万引きをした。中学では不登校、ふらふらして非行。異変に気が付いた親にカウンセリングを受けさせられたが、親は自分たちのせいだということに気がつかない。警察に補導されて、一時保護所に行く。家に帰りたくないと訴えたが、すぐに家に戻される。中2までそれが繰り返される。「家に帰すなら人殺しをしてきます」、というとやっと児童養護施設に入れてもらえる。施設では職員に嫌われ、居場所がなかった。高校には働きながら通う。人間関係でつまずき、お金の管理はできない。

32歳の時に自分史を作り、よくここまで生きてきたと思った時、死んだ弟に生かされてきたと思えた。“ひどい家庭で育ちながら、生きている”ことが人に感動を与えることを知った。ブログで虐待の現実を発信していこうと思った。
両親と35年ぶりに会う。父は虐待をしていたという意識はなく、しつけと思っていたようだ。母親は「最悪の母だった」といって泣いていた。罪を背負って生きている、と。

【子どもの頃、どうしてほしかったか】
19歳で家を出たとき初めて、自分の家が虐待のある家だと気づいた。子どもに「虐待」というものがあるということを知らせること。声をかけること。大人が気を付けるようにならないといけない。

 

ヤマダカナンさん

男性依存の母親、いつも男性が出入りしていた。養父には暴力と性的虐待を受けていた。

中学になったら、祖父母の家に住みたいといって出た。マンガを読み、現実逃避していた。
養父を殺したいと思ったが、そのせいで刑務所にいくのはいやだと考えた。また男性依存にならないように、仕事依存になろうと思った。マンガに救われたので、マンガに恩返しというつもりで仕事をしている。虐待の後遺症は血が出るほど爪を噛むことや悪夢、潔癖症など。「こんな私でも愛してほしい」という思いを22歳のときにマンガにした。

結婚して子どもを儲けることになったのは、人生に絶望していたが愛情に飢えていたことと夫が子どもがほしいといったことと協力するといったことによる。しかし妊娠中に母性のないことに気がつき、子育てのロールモデルがないので、子どもを育てる自信がなかった。
抑圧された日々のせいで、怒りのコップがいつも満タン。男性への怒りはまったく癒されず、
いつも心の中で男性をバカにしている。子どもに対しては虐待しそうになるのを我慢するのでストレスがたまる。怒りのコップが満タンなせいでちょっとのことで怒ってしまう。そういうときはファミリーサポートを利用したり、夫に協力してもらう。

ずっと児童相談所の存在もカウンセリングの存在も知らなかった。「支援」という言葉は“上から目線”に感じる。寄り添うことが大事だが、もしそういう人が近くにいたら、コップは満タンだと思った方がよい。幼稚園の先生を見ているとみじめになる。自分に母性がないから。虐待している親には“母性”を封印して話しかけるべき。
人生の一番の後悔は、母の結婚を許したこと、一番の理解者は妹。マンガ家でなくなっても小中学生向けにマンガ教室をやりたい。人生の中で一番よかったことは、マンガ家になれたことで、唯一、誇れること。マンガを描くことで自分の中にある毒をまき散らしている。母を殺そうとは思わないが、マンガの中では2度殺した。

【子どもの頃、どうしてほしかったか】
大人は敵だと思っていた。児童相談所の存在を知らなかった。友だちには話していて、へルプを出していたが、虐待というものの認識がなかったのだと思う。だれも助けてくれなかった。子どもにも「虐待」の意味を知らせるべき。子どもには優しくしてほしい。子どもは愛して話しかけてくれる人を求めている。優しくしてくれる人に「試し行動」をするかもしれないが、ゆっくり焦らずにつきあってほしい。

 

サクラさん

物心ついたころから、母から虐待を受けていた。怒られたり、たたかれたり、頭がぐらぐらするほど叩かれたが、外傷がないので、だれにもわかってもらえなかった。母には絶対、逆らえず、理不尽な怒られ方をするので、本当の母親ではないのかと疑っていた。母が泣いている私ののどに指を入れて流血する事件があって、医者は「どうしてこんなケガをしたの」と驚いて聞いてきたが、母が鬼のような形相でにらんでいたので「わからん」と答えた。ある日は泣いていたら、母が馬乗りになって、口にガムテープを張る。もう死んでもいいとあきらめたら、急に静かになったので、驚いたようで、ガムテープをはずされた。死のうと思ったことで生かされた。虐待は3,4歳の頃が一番ひどかった。過干渉で教育虐待もひどかった。

あんな大人にはなりたくないと思っていた。いつも母の気に入りそうな言葉を選んで話していた。本当の自分がわからなくなった。クラスメートも「よくわからない子ども」だと思ったにちがいない。居場所がなかった。これは虐待だと気がついたのは18歳のとき。母がテレビで、虐待のニュースを観ていて、「こんな母親がいるんだね」と言っているのを聞いて驚いた。結婚しないで子どもも作らないでいようと思った。表面上は友だち親子。
体調が悪くメヌエール病になると、さらに過干渉がひどくなり、40代になった自分の住んでいるところに母が来て、いろいろなものに触るので、嫌悪感が走る。結果、摂食障害になる。

虐待と向き合うためにカウンセリングを受け、その中でガムテープのことも思いだした。虐待を受けたことで、日常生活を送ることさえ、まともにできない。複雑性PTSDで解離や多重人格を起こす。ほめられたことがないので、何をしても達成感がない。自己肯定感もない。自分には価値がない。不安。いつも気が張りつめていて、仕事の前日は眠れない。何か失敗したら、どうしようと思う。誰と接していても母との関係がでてくる。

自分は怒りの塊。虐待という認識のなかった怒り、過去にとらわれないで、と簡単に言ってくる人への怒りなどがある。
自分を守ることに必死になって、人と接することが怖くひきこもる、でも怖くても人とつながりたかった。
虐待で死んだ子どものニュースを見ると、その後の生きづらさを味わわなくてすんで良かったのかもしれないと思う。

【子どもの頃、どうしてほしかったか】
毎日、尋常ではない泣き方をしていたにちがいないので、まわりの人には気がついてほしかった。日々の生活の中で、あれっと思うことがあれば、声をかけてもらえたら、と思う。そうしたら、その後の人生が変わったかもしれない。自分の家がおかしいのではないかと思うことはあるようでない。友だちとの会話で気が付いたことは「『嫌いな野菜を入れないで』っていうのにお母さんたら入れちゃんだ」という友だちがいた。自分の家ではありえないこと、親に意見を言う、嫌だということはありえないことだった。今の社会に必要なのは、子どもが「うちはおかしい」と気づける仕組みと受け皿。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

虐待防止ポスター

 


 

ここからは会場からの意見や感想です。

会場からの共感
自分もずっと虐待を受けてきたが、自分の家がおかしい、おかしい世界にいるということが20歳までわからなかった。過干渉の家。しかし気づいたときは、もう遅く、廃人になってしまう。自分は大学院にいったが、2年間引きこもっている。辛い過去と今の自分の不遇が結びついていると証明できないことも辛い。

虐待らしいものを見たらどうするか。親へのフォローが必要
・保育園で乱暴だが、やたら甘えてくる子どもがいる。自分の子どもはその子どもに歯を折られたが、保育園に対しては「ママをおこらないで。仕事を休んで、ゆっくり子どもといられる日を作ってください」といってほしいと頼んだ。そのせいか、その子どもは落ち着いてきた。ママがゆっくり休める仕組みが必要。
・泣き叫ぶ息子を乱暴にひきずるように連れている父親がいた。建物に入ったところをおいかけた。ドンドン、とい激しい音が聞こえる。見ると父親が壁をたたいている。「どうしましたか?」と聞くと「あんたには関係ないでしょう」といわれるが、「お父さん、困っているんでしょう」とお父さんをフォローした。すると父親は「自分は虐待を受けてきた。だから虐待をしたくないんだ」という。虐待を受けてきた人は子育てに苦労しているので、フォローが必要。

学校現場で見る教育虐待
「受験」を本人の意志とは無関係にさせている家庭。塾の勉強のために午前2時、3時まで勉強をさせる。子どもが家出、学校も翻弄させられる。心配しても、家からは「余計なことをするな」といわれる。

みんなそれぞれいっしょうけんめい。しかしズレがある。そのズレをどうしていくか、考えていくことが大事。痛みを考え続けていかなければならない。

シスターのあいさつ
心の痛む現実です。でも私たち、みんなで丸くなってつながっていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

シスターのあいさつ

 


 

ご本人から生々しい虐待の実態を聞いたのは初めてで、多くのことを学びました。
虐待を受けている子どもは自分の家が特別だ、ということがわからないということ。自分の家のことしかわからないので、比較もできない。だから助けを求めることもできないし、児童相談所の存在も知らない。
つまり、外からの助けがないと救えないということ。
私たちはどうすれば子どもたちを救えるのか。
社会全体で子どもを見守る体制作りを早急に整えなければと思いました。

虐待をしている親は虐待をしている意識がなく、“しつけ”と思っている場合もある、ということ。子どもにも人格があり、暴力が子どもに及ぼす影響をしらないといけない。人権教育、子どもの成長発達についての基礎的知識を学ぶ機会が必要。それでも虐待をしてしまう親へのフォローする仕組みが必要だと感じました。

課題は多いが、子どもの成長は待ったなし。知恵を出しあって、早急に子どもを守る仕組みを作るべきです。

 

 

 

 

 

 

聖フランシスコ子供寮の前で