「校則」はなぜ必要? 

2019年1月6日 15時47分 | カテゴリー: 教育

一方的な「指示・管理」より子どもの主体性、考える力を育てるべきでは

今年の元旦も弟妹家族と実家に集まって賑やかにすごしました。
甥や姪たちとは恒例のカードゲームをしましたが、その後はおしゃべり。

 

 

 

 

 

 

 

カードゲーム「NEU」。順番に札を出していくが101を超えてはならないというルール

 

それぞれの学校、中学校や高校の「校則」について話に花が咲きました。ずいぶん細かな校則があるものです。チェックしなければならない先生たちの労力も大変なのでは?
 

甥の通っている市立中学校では…


毎朝、登校時に教師が立っていて、服装チェックが行われるとのこと。
制服のブレザーのボタンがちゃんとはめられていて、ネクタイをしているか、ズボンの丈が適当か、靴は白か黒かグレーのみでワンポイントのみとなっているか。髪形は中学生らしいものであるかどうか(デザイン性のあるものや2ブロックはだめ)

靴下はくるぶしがしっかり隠れるものであること。さらに式典のときは、ひざ下まである長靴下をはくこと。(ズボンをはいているので見えないのに!)。甥は2度、くるぶしが見えるということで、靴下(担任が100円ショップで買って用意している)を100円で買わされたとのこと。

冬は上着の下に学校指定のVネックセーターを着ている。教室では上着を脱いでセーターで過ごしてもよいが、廊下やトイレに行く時は上着を着なければならない。(甥はこれが不思議だという)

体操着、上着はズボンの中に入れなくてはならない。11月までは半袖、半ズボンで、12月以降が長袖、長ズボンでなくてはならない。

顔について、眉毛はいじってはならない。

女子の髪形は肩にかかったら、しばらなければならない。目にかかってはならない。ポニーテールやおだんごの位置はできるかぎり下の方でなければならない。
整髪料、スプレー禁止。香りのある制汗剤も禁止。

自分のクラス以外の他のクラスに入ってはならない。


 

みんなでワイワイと「なんでそうなんだろうね?」と話し合った結果、「相対的にかっこよくしてはならない。ださくしなくてはならないということだろう」ということに落ち着きました。校内で恋愛感情が芽生えないように、ということでしょうか。これまで学校からは「なぜそうなのか」という説明はなかったそうですが。

 

 

 

 

 

 

 

中学生・高校生・社会人・・・甥と姪といっしょに

 

校則=行き過ぎる「非行予防」はクラス人数の多さからくる「管理的体制」が原因?

校則の目的は、全体的には、おそらく“非行予防”ということでしょうが、もし非行予防なら一方的な管理や指示より、「善悪の判断のつく人間、しっかり自分の意志を持ち、主体的に考えられる人間を育てる」ことが重要ではないでしょうか。せめて生徒に納得のいく説明をするか、いっしょに考える機会を持つべきではないかと思うのです。しかし校則を作らなければならない事情が学校にはあるのかもしれません。また個々の学校の問題というよりは、国としての教育予算の少なさにも要因があるのではないかなとも考えさせられました。

 

日本の教育費への公的資金は先進国の中でかなりの低さ

中学校の1学級の児童数はOECD平均が23.7人なのに比べて、日本は33人と国際的な標準からするとまだ多いといわれています。

日本の教育現場では問題解決に向けて考えあったり、話し合ったりすることがプログラムに取り入れられているのでしょうか。そのために教師を含めて応答的、共感的な関係を築ける規模のクラス人数といえるでしょうか。管理的な体制にしなくてもすむようなクラス人数、ゆとりのある教師の加配と教育プログラムが必要ではないでしょうか。

2015年のOECD加盟国において、国内総生産(GDP)のうち小学校から大学までの教育機関に対する公的支出の割合を見ると、日本は2.9%で比較可能な34か国中で最下位。OECD加盟国の平均は4.2%。ノルウエー6.3%、フィンランド5.6%。


自由な学校・埼玉県立所沢高校

中学校と高校とでは事情が違うでしょうが、私自身は約40年前、全く校則のない埼玉県立所沢高校ですごしました。所沢高校は当時、校則もなければ、制服もありませんでした。入学式で校長先生が「この学校には自由がありますが、自由には責任が伴います」と言われたことを覚えています。大人扱いされていることに誇らしさを感じました。5人集まれば同好会を作ることもできて、公立高校なのに「聖書研究会」を作っていたことも覚えています。政治的・思想的な研究をすることも自由なのです。高校生活の3年間で自分の行動に対して「なぜそうするのか」ということを、自分自身で考える癖がついたように思います。教師にもクラスメートにも自由でのびのびした個性的な人が多く、自分なりの生き方を求めている高校生にはとても刺激的な学校でした。教育とは教師と生徒の間に信頼関係があり、学校全体が生徒一人一人の成長する力を信じることではないでしょうか。学ぶ意欲は、意志があってこそのもので、その意志は周りから尊重されることで育まれるのだと思うのです。もし校則の多い学校で、窮屈だったら、人間の内面性や人生で大切なことや生きる意義に目を向ける感性を持てたでしょうか。

そういえば、高校受験のときに、滑り止めに受けた私立高校では、面接のときに、私の天然パーマの髪の毛を見て、「地毛証明書」を出していただくことになります、と言われて驚いたことがあります。ただでさえコンプレックスに感じていることをことさらに意識させるようで嫌だったことを覚えています。それもあって、所沢高校への受験勉強を頑張ったのかもしれないので、かえって良かったかもしれませんが。
 
 

校則からいろいろ考えをめぐらしました。みなさんはどう思いますか?