池上小学校の歴史の1ページ 平和を守るために「戦争」の記録を残しておくこと

2019年2月4日 21時49分 | カテゴリー: 平和

以前、大森めぐみ幼稚園で働いていた時、主任だった宮内慶子先生から久しぶりにお電話をいただきました。先生は昭和9年生まれ、現在85歳です。
戦時中、池上小学校に在籍時、学童疎開をしたときの思い出の品物があるので保存活用ができないかというご相談でした。どのような物なのか、見せていただきに伺いました。感想と共にご報告します。

 

 

 

 

 

 

 

宮内慶子先生

 

学童疎開の子どもたち

学童疎開先から一足先に帰る慶子さんへのクラスの友だちからの寄せ書き

昭和20年6月24日の日付の池上国民学校(現在の池上小学校)6年生の学童疎開先、富山県となみ平野の光徳寺(光徳寺学寮)の子どもと教師や寮母さん、寺の住職からの寄せ書きでした。宮内慶子さん(旧制中嶋)がみんなより一足先に疎開先を離れるからです。連日の空襲で不安になった母親が兄弟姉妹を呼び寄せようと8人姉弟の末っ子の慶子さんを呼び戻したのでした。

 

障子紙に描かれたこの寄せ書きを慶子さんは大切に保管してこられ、額に収めたところでした。同じ時を生きた友人はもう何人も亡くなっていますが、思い出の中には生き生きと蘇ってくるそうです。
寄せ書きには男子30名と女子14名の名前、引率の先生(森留治先生、佐藤ふみ先生)と2人の寮母さんの名前も記されています。

 

 

 

 

 

 

 

障子紙に書かれた寄せ書き

 

戦意高揚の教育はこどもたちを飲み込む

寄せ書きからは当時の子どもたちの気持ちや状況を垣間見ることができます。
終戦まであと1か月半という時なので、敗戦の色が濃くなっている時期にちがいありませんが、「勝利の日までがんばります」と書いている女の子。男の子の中には兵隊や戦闘機を描く子どもが多くいました。日本が勝つと思い込んでいること、兵隊や戦闘機へのあこがれを見ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

寄せ書き、右からの一部

 

 

 

 

 

 

 

真ん中

 

 

 

 

 

 

 

 

また驚くのはどの子どももきれいできちんとした字を書いていることです。現代に比べて勉強の中で「美しい文字を書くこと」に重きが置かれていた現れではないでしょうか。(そういえば大正15年生まれの父がよく“字は人柄を表す”と言ってきれいな字へのこだわりが強かったことを思い出します)

 

子どもたちの疎開生活

疎開生活のことをお聞きしました。
地方に親戚がある子どもは縁故疎開でしたが、親戚のない子どもたちは、集団で学童疎開をしました。
昭和19年9月から翌年5月までは静岡県小笠郡南山村の養徳院という寺での疎開生活。食糧事情はよくて、芋やごはん、牛乳やミカンも食べられたということです。また村の人たちとの交流もあり、お祭りや正月などに子どもを2~3人ずつ各家に招いてくれて、ごちそうをしてもらったそうです。慶子さんと友だちの2人を招いてくれた家は呉服やさんで、この家族とは戦後もずっと長く交流が続いたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

池上国民学校5年2組、疎開先へ 昭和19年

 

 

 

 

 

 

 

疎開先 静岡県小笠郡南山村の養徳院

 
勉強の合間に井戸の水を汲みにいって天秤をかついだり、配給された下駄に火箸で自分の名前を入れたり、靴下に接ぎを当てたり、足袋を縫ったりしたそうです。指導してくれたのは寮母さんです。

 

 

 

 

 

 

 

井戸からの水くみの様子を描いた絵

 

 

 

 

 

 

配給された下駄にそれぞれ、火箸で自分の名前を入れているところ

 

 

 

 

 

 

 

靴下に接ぎを当てたり、足袋を作っているところ

 

疎開先が移動 静岡から富山に

昭和20年5月からは、富山県となみ平野の光徳寺(光徳寺学寮)へ。慶子さんはここには1か月しかいませんでしたが、こちらは食糧事情が悪く、山の中のスカンポや山草を探したり、しいのみを拾って食べたそうです。ある時、太いフキの茎を見つけて先生には褒められたけれど、あとから村の人が作っていた作物だとわかって先生が村人から注意を受けたそうです。フキの葉を食べて、おなかをこわしても薬はなく、「げんのしょうこ」や「ドクダミ」を飲まされたそうです。

戦争はだめ、子どもが犠牲になるのだから

慶子さんの長兄はビルマのインパール作戦で戦死されたそうです。おそらく戦死というより餓死だったにちがいない、遺骨も何も残されていない、残酷なことだと話されていました。
戦争は絶対だめ、庶民はただただ困るのだから。特に犠牲になるのは子どもたちだから、とも。

慶子さんはぜひこういうものを活用して学校で平和の大切さ、国際協調の大切さを語り継いでいってほしいと願っておられ、母校の池上小学校にも相談をしてみたいと話されていました。

お話を伺いながら、当時の学校教師は集団疎開にも同行して、生活を共にしながら子どもたちに勉強を教え、さらに地域との連携や不安を取り除く役目を担っていたのだな、と改めて大変な時代であったことを知りました。

 

戦争を物語る貴重な品々を残していくには

各家庭にはもしかしたら、まだ貴重な品物が残っているのかもしれません。将来に平和を引き継ぐためにも歴史の証人であるそのようの品物を集めて大田区として、保管展示していくことができないかと考えさせられたのでした。