不登校の子どもたちは“本来の教育の在り方”を訴えているー登校拒否・不登校を考える夏の全国集会

登校拒否・不登校を考える夏の全国集会 2019 in 東京

主催:特定非営利活動法人フリースクール全国ネットワーク

記念講演「人は本来学び続ける存在」
汐見稔幸さん

(東京大学名誉教授、日本保育学会会長、全国保育士養成協議会会長、白梅学園名誉学長)

 
 
私にとって汐見先生は幼稚園教諭時代、よく講義をお聞きしました。具体的な事例を通して子どもの心に寄り添った保育の在り方を示してくださり、大変影響を受けました。ここでもやはり具体的な話から、教育の本質を示された講義でした。本来、“学ぶこと”とは何かを考えさせられ、それを手がかりに新しい学校の価値を生み出していかなくては、と思わされた講義でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会場の早稲田大学、校舎へのアプローチ

 

教育が問われる「荒れる中高生」1978年頃

高校2年生、学校へ行かず、家で金属バットを振り回す。どしゃぶりの雨の中、両親に土下座をさせる。耐え切れずに夫婦が子どもを殺すという事件。またはやり高校生が「おじいちゃんは東大だったんだよ」と繰り返しいう祖母を殺すという事件。
これらの事件が示すものを私たちはちゃんと考えてきただろうか。子どもの辛さ、心の闇を。
学校に行かない、という選択をした子どもの感性は、豊かで繊細。学校の価値観を押し付けてしまっていないだろうか。

 

近代の学校

近代の学校は、強力な国をつくるためのしかけだった。号令で子どもを動かすのは、指示通り動く従順な子どもにするためだった。国の定めたカリキュラムで国に尽くすという体制作りは、軍隊と同じ朝礼や運動場に表れている。教育というより「鋳型はめ」であり、近代化とは早く多く生産することが良いことだという価値観を植え付けることになり、競争は孤立化を招いた。

不登校の子どもたちは“本来の教育の在り方”を訴えているのではないだろうか。
自分で学びたいことを決めさせて!
みんなでわいわいしながら、創るということをさせて!と。不登校児は「主体的自己実現児」
といえるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

汐見稔幸さん

 

文化を生み出すもの

ソクラテス・釈迦・孔子・キリスト・道元、いずれの偉大な思想家も本人は何も書き残さず、広めたのは、全て弟子たちである。つまり文化とは、創り出す人と広めていこうとする人との合作であり、真理は一人では生み出せない。文化を生み出す土壌は議論や伝承であり、人が他者を必要とする理由ともいえる。
教育も、師弟関係、寺子屋においてそうであるように、“自覚的に学びたい”という人がいて、初めて成り立つ。自覚的に学んでいた、寺子屋全盛の江戸時代、日本人は今より知的能力が高かった。

 

学校を変えよう

近代化が生み出した負の遺産は、環境問題等、山積している。そして人口減少時代に経済成長はない。しかし経済成長が幸せだとはいえない。
新しい時代の担い手の子どもたちの“違う生き方や、違う学び方”に対応していかなくてはならない。今のままの教育でよいはずがない。「教えてよ、やらせてよ、体験させてよ!」を大事にする学びの場、フリースクールの内容を研究して、胸を張って「不登校」を選んだといえるようにしたい。

あらゆる生き物は本来、生きるために経験を通して「学ぶ」本性がある。学ぶことはその内容に興味を持ちつづけることであり、教育はそれを洗練すること、学校の多様化が必要な所以である。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

普段、学校はあまりにも当たり前に存在していますが、人間の歴史から見るとそう古いものではなく、しかも近代の学校は人の本来持っている「学びたい」という欲求から生まれたのではなく、国家のために創られたものだということ、そこからのひずみを改めて感じました。
「教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保に関する法律)が制定され、“不登校はだれにでも起こりうるもの”とされたことは画期的なことですが、近代の学校に替わる、多様な教育が公教育として認められていないことは歯がゆいことです。汐見先生が言われたようにフリースクールの内容の研究からその意義を訴えていくこと、不登校の子どもたちの“学ぶ権利”を訴えていくことに取り組んでいきたいと思います。