くらしを愛す、街を愛す 「昭和レトロ建築 ~久が原の名建築を訪ねて」《2》

山口文象さんの建築にみる「社会に開かれた家」

「ここから社会に出て行って暴れてこい」

 

久が原の街歩きのゴールはクロスクラブ。ここは山口文象さんが設計、建築したもので、文象さんがご一家と住んでいた家です。この日は、文象さんの長男、勝敏さんが父・文象さんのこと、自邸・クロスクラブのことをお話ししてくださいました。文象さんの設計で残っている一般住居はここだけだそうで、大変貴重なものだということです。

久が原スタイル|クロスクラブ

建築家・山口文象
1902年~1978年
近代日本建築の運動のリーダーの一人

 

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道路側から見た山口文象さんの自邸「クロスクラブ」

 

自分の家が実験台・絶えず変化する家

この家は昭和15年に着工。未完成のところは、中庭に向かうひさし。もっと伸ばすつもりで、鉄骨がむき出しになっている。自分の家を実験台にしていたので、新しい建材が入ってくると使ってみるなど、しょっちゅう変化する建物に母親(文象さんの妻)は不満をもらすこともあった。1階のサロン部分は元々は純和風だったが、後年、洋風のしつらえにするために壁や天井を覆っている。父親が大工の棟梁だった文象さんは、和風建築にも造詣が深いが、和風建築で現存しているのは小説家・林芙美子記念館

 

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中庭

 

クロスクラブという名前の由来

文象さんはクリスチャンであったので、十字架という意味の「クロス」、そしていろいろな人が交わること「クロス」を願って家につけた名前が「クロスクラブ」。建築が「家族を守る」ことと「家を社会に向ける」という機能を持つとすれば、クロスクラブは後者。「ここから社会に出て行って暴れてこい」と文象さんは言って、若者たちの背中を押した。暖炉のあるサロンは、パブリック空間で、中庭も多くの人が集えるように作った。離れは、弟子を泊めたり、近くの教会の牧師を住まわせたこともある。家賃は取らなかった。社会を受け入れる、人を受け入れる、包容力のある、社会に開かれた空間作りを行った。

 

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離れ

 

空間が人をもてなす

勝敏さんの奥さま(文象さんにとって嫁)の立場からのお話も伺えました。
義父は「世界一厳しくて、世界一優しい人」。椅子の上に無造作に鞄を置くと叱ったり、「ここはすわるところだ」。食卓についてから、あれがない、これがないと席を立つのを嫌がった。「食事はすっかり準備を整えてから始めるもの」だと。

美しさ、デザイン性にこだわり、何もなくても“空間が人をもてなす”という考えを家の在り方に求めていた。

 

サロンの活用

文象さんの精神を受け継ぎ、サロンでは勝敏さんご自身のコンサート(勝敏さんは芸大を出た音楽家、ピアニスト、オルガニスト)の他、様々な催し物が開催される。現在は撮影にもよく使われる。
「中庭は人を受け入れる空気が流れているでしょう。みんなで作り上げる気風で今日まできているので、どんどん活用してほしい」と勝敏さん。

 

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サロン(1階の広間)

 

 

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山口文象さんの長男夫妻

 

 

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中庭

 


私が以前、務めていた幼稚園はクロスクラブのすぐ近くにあり、昔、幼稚園にプールがなかった頃、山口文象さんの中庭のプールを幼稚園の子どもたちが使わせてもらっていたそうです。地域に開放的で地域の交流を大切にされていた文象さんのお人柄が伺われます。

街歩きは、街を愛し、育んできた人たちの歴史に触れることでもあり、先人の努力に思いを派せ、学び、今の暮らし方を振り返りながら、自分たちの街を自分たちの手で創っていく意欲を喚起するもののような気がします。

 

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離れ(モデル気分で)