優れた建築文化を残すこと ~平和への願いを込めて~ 大田区の文化遺産 池上梅園・清月庵
2017年4月27日、池上梅園の中にある美しい茶室、清月庵にて私たち「大田遺産の会」では中島恭名先生(表千家茶道教授)のお話を伺う機会を得ました。この清月庵は大正期に建てられたものですが、平成元年、稀有な運命をたどってこの池上梅園に復元されたものです。
語られる中島先生
昭和61年まで池上本門寺の山門近くに最後の持ち主(7代目)の名から西田邸と呼ばれる600坪あまりの庭園があり、清月庵はその中にある茶室の一つでした。
バブルの最盛期、西田邸は売りに出され、やがてマンション業者の手に渡りますが、この清月庵だけは、解体の難から救い出され、今日幸いにも私たちが緑豊かな池上梅園の中にいつでも眺めることができるようになりました。それは中島先生が全身全霊をかけてこの建物を守り抜いてくださったおかげなのですが、この大田区の文化遺産というべきこの清月庵がどのようにして池上梅園に置かれることになったのか、建物はもちろんですが、保存運動も含めた価値もここに記しておきたいと思います。
西田邸のこと、建築家・川尻新吉、善治親子
西田邸は、元は数寄屋建築施工家の川尻新吉、善治の住まいを兼ねた料亭として建てたものであり、大正初めに建てられたときは、1000坪あった庭園の中にたくさんの建造物があったそうです。大正時代は江戸職人の技術がまだ残っており、大工の伝統的な技が黄金時代だったそうですが、新吉氏は指物師から建築家になった人で、善治氏は数寄屋建築の設計、施工を手掛け、親子は北大路魯山人邸の他、大正から明治にかけての多数の名建築を残しています。全国から集めた銘木は驚くべきぜいたくさだったといわれています。清月庵も柱は孟宗竹、皮付のえんじゅの木、杉など、踏み込み床は桜の一枚板と、まるで木の饗宴です。
また造園にも熱心だった善治氏が温室を建て、四季の花を育て「池上華壇」と門標を出し、蒲田松竹撮影所があったときは、ロケ地としてよく使われたそうです。
持ち主が変わっていくうちに、土地は切り売りされ、昭和61年当時、西田邸には、清月庵の他に、数寄屋作りの2階建ての母屋、もう一つの茶室、門番所のついた数寄屋作りの門の4棟が点在していました。檜皮葺きのそれぞれの建築には貴重な銘木が使われ、建具の意匠、欄間の彫刻、襖の引手、天袋,地袋の意匠、電灯の笠など全て川尻氏の手作りで、母屋の天井は蜘蛛の巣天井と言われた面白い趣向の天井があったそうです。手入れの行き届いた庭も灯篭、敷石、井戸のたたずまい、地衣類、百種類以上の木々と都内とは思えない趣があったといいます。
文化遺産の価値を見ない、利潤追求の企業と中島先生の闘い
昭和61年、マンション業者はこの大田区の迎賓館ともなろう、西田邸をすっかり解体する計画を立てました。この計画を知った中島先生は、なぜこの貴重な緑と素晴らしい建物を壊さなければならないのかと驚き、すぐに取り壊し中止と保存を求めて、「池上のみどりと環境を守る会」を結成しました。
“江戸と大正期の技術が調和した名建築の川尻邸”、戦火を逃れたこの庭園を何としても残さなければならない、という思いで、大田区に買収を求める陳情活動をはじめ、大規模な保存運動はスタートしました。先生にとっては、貴重な文化遺産を残すことは、平和運動でもあったそうです。この保存運動はマスコミでも取り上げられ、多くの専門家、日本建築学会の人たちも「なぜ壊すのか」と惜しんだそうです。
しかし、その願いもむなしく、保存運動の高まりがマンション業者の危機感をあおり、西田邸は無残に破壊されました。釘を使っていない建造物が、とび口や斧で乱暴に壊されていったそうです。
中島先生は、その中のかろうじて復元可能と思われた、一つの茶室を解体、保管して、再築を待つ決断をしました。一時、京都に再築される話があり、京都に運ばれたこともありましたが、昭和63年に大田区からの要請があり、池上梅園に復元されました。解体から保存、復元までの費用全てを中島先生が私財を投じ、大田区に寄贈、こうして最終的に池上に戻ってくることができました。それが清月庵であり、今は安価でだれもが利用できる茶室になっています。
静月庵にて
平和への思い
中島先生の保存運動への願いをその著書から少し長くなりますが、引用いたします。
「私が庭園保存運動に全身全霊をかけたのは、あの忌まわしい戦争の体験があるからだ。低空を何十機ものB29が襲いかかる恐怖、全てを焼き尽くした空襲、焼け野原になり、多くの人が死んだ。死んでいく人を看病し、兄を戦死で失った悲しみ、家族の深い悲しみを決して忘れない。
その中を生き延びた私の戦争体験が形を変えて、この建物を21世紀に残したいという思いに駆り立てた。あの度重なる空襲の中で、見事な建造物の池上本門寺は焼き尽くされたのに、奇跡的に、数寄屋大工の最高の技術と銘木の織りなす名建築は生き延びた。それを今、この平和な世に、なぜ貴重な文化財を壊してしまうのか、日本中を狂わせたバブルの餌食になるという現実に、「生き延びた者をなぜ死なす」という思いに駆り立てられ、その理不尽さに憤り、保存運動へと走り出したように思う。
利益追求ばかりしていたら、今後の日本の若者はどうなってしまうのだろう。マンション業者とはいえ、日本の文化、建築を勉強してほしい。日本の文化をわかる会社であれば、このような素晴らしい自然に恵まれた地と建物を、保存方法を探ることもせずして、マンションを建てる暴挙はしないだろう。
その後の茶室の解体保存、そして復元への努力をしたのも、日本の将来のため、次の世代の人々、若者、子供達に残したい。時の流れに流されることなく、よいものは後世に残していかなければいけない。時代を越えて、よいものはよいものだという事実を伝えたい。平和の世の中が続きますようにとの願いをこめて頑張ったのである。」
激動の昭和を生きて80年
(付)茶室「清月庵」復元記録 中島恭名著 より
大正15年生まれの中島先生は、今年91歳。
常軌を逸していたバブル時代と、行政の日本文化への無理解、業者の非情な壊し方、それらの経験と悔しさが鮮明に伝わってくるお話でした。
しかし、中島先生の未来志向は私たちに、大きな目的を持つことをも教えてくれました。
先人の残してくれた優れた建築は“子どもたちへの遺産”だということです。中島先生が「安い賃料でみんなに使ってほしい。子どもにも一度はすわってほしい、あれから30年たった、90過ぎても生きててよかった」と、言われましたが、この清月庵と先生の生き方そのものが、子どもたちへの贈り物であると感じる言葉でした。
私たち、大田遺産の会がめざすべきものをも示唆された貴重なひと時でした。