見えないから見えたもの 「みんなでつくるやさしいまちプロジェクト」視覚障害者竹内さん講演を聴いて

12月3日は、大田区産業プラザPioにて、地域福祉推進事業と民生委員100周年記念事業として「みんなでつくる やさしいまち プロジェクト」が開催されました。大展示ホールでは、出張「だんだん」や、口で絵を描く古小路さんの実演もあり、地域福祉の担い手たちのブースが並んでいました。

 

 

 

 

 

 

日本のこども食堂発祥、だんだん

 

 

 

 

 

 

 

口で描く画家「古小路さん」

 

 

 

 

 

 

 

「古小路さん」の実演

 

 

 

 

 

 

 

学習支援教室「いるか」のブース

 

コンベンションホールでは、網膜剥離により8歳で失明をされたという社会福祉法人岡山ライトハウス理事長 竹内昌彦さんが、基調講演をなさいました。軽妙な語り口で大いに笑わせてくれながら、珠玉なメッセージをいただきました。波乱に満ちた人生経験からは、障害のあるなしを越えて、生きる意味を考えさせられ、勇気を与えられました。多くの若い人にも聞いてもらいたい内容でした。ここに要旨をご報告します。

視覚障害者からのお願い

1、点字ブロックの上に自転車などを置かないでほしい。点字ブロックは岡山が発祥の地。50年前に考案。世界に広がってきている。募金を集めて石碑を作ったら、学区の中学生が定期的に磨いてくれている。歌「しあわせの黄色い道」もできた。

2、声をかけてほしい。あいさつの後に○○です、と名前も言ってほしい。
信号のところで見かけたら「何か手伝いますか」「どうぞ右手につかまってください」と声をかけてほしい。右ひじをつかまえさせてもらえると歩きやすい。

私の生い立ち

悲しいことが2つ

1、    目が見えなくなったこと
2、    最初に生まれた子どもが重度の障害。7歳で亡くなったこと

恵まれたこと

1、    すばらしい両親
2、    すばらしい教師との出会い
3、    すばらしい家族と仲間
 

子どもの頃のこと
・母のこと。医者から「この子の目はもう一生見えない」と告げられた時、母親は病院の椅子で激しく泣いた。自分の目のことより、大好きな母が泣くことの方が辛かった。親を悲しませたくない、という思いが強くなる。
・いじめのこと。当時は障害者の人権はなく、「あきめくら」「ぼろめくら」といじめられた。
石を投げつけられた時は、仕返しに相手の家の座敷に砂を投げ入れた。相手の親に事情を話すとその親は自分の子どもにあやまらせた。
・教師のこと。1年生のクラスはいじめがあったが、2年生のクラスはいいクラスだった。先生が「どうしたら、竹内君を助けていける?」となげかけたことから、競って親切にしてくれた。「困っている人を助けよう」というクラスになった。教師の影響は大きい。
・本当のオール5。小学3年生から全く見えなくなったので、盲学校に通う。先生が丁寧に教えてくれたので勉強が面白くなり予習もするようになった。成績が上がり、オール5になった。教師は「この力を自分だけのために使うのではなく、みんなのために使えたら、本当のオール5になるよ。あなたのことをずっと見ていますよ」と言ってくれた。
→なぜ勉強するのか、“自分のため”というだけではだめ。自分の時間を使って周囲の人を助けるような人、立派な人になろう、といおう。
・兄は優秀だったので、(目の見えない自分がいると、この家は不幸か)と思ったこともあったが、家族はエリートの兄と自分を同じように大事にしてくれた。
・人に喜ばれること。盲学校があんま、マッサージの技術を習得させることにばかり熱心なので少し不満だったが、高校2年生のときに近所の人の50肩を治してあげるととても喜ばれ、その経験が大学進学につながった。
→子どもには人の役にたつことを実感させよう。子どもに「ありがとう」という場面を作ろう。
・子どもに経験をさせるということ。昔、障害児を家の奥に隠していた家もあったが、我が家は、どこにでも連れて行って、いろいろな体験をさせてくれた。父はたくさん本を読んでくれた。昭和39年、東京パラリンピックの岡山代表になったとき、無口の父が岡山駅で電車の発車寸前に万歳三唱をしてくれた。父の勝利宣言だったにちがいない。「腕によりをかけてこの子を育ててきた。この子を育ててきてよかった」という勝利宣言。父への感謝の思いでいっぱいになった19歳。

私の訴えたいこと

・誕生日は親にありがとう、という日。自由に動く体があって、見える目があることはすばらしい。
・最初の子どもは脳性麻痺で、体の動かない子ども。たった一つの保育園が受け入れてくれて「みんなでいっしょに大きくなろうね」とは園長先生の言葉。市の保育園が障害児を受け入れたことが市議会で問題になったが、市長の判断でそれから障害児保育を始めることになる。リーダーの役割は大きい。
・長男は7歳で亡くなる。あまりにも不公平な人生。だから若い人にいいたい。簡単に死なないでほしい。大きな津波に呑まれた人もいる。元気な体を自由に使わずに死んではいけない。いじめられても死なないでほしい。自分の命は自分だけのものではない。親は子どものために死ねる。そのくらいの思いで、子どもを育てている。辛いことはずっと続くわけではない。辛かったら逃げればよい。つばめだって、温かいところをめざして寒いところから去っていくのだから。
・障害児を持つ親がどんなに心を痛めていることか。「いっしょにご飯を食べようよ」という家になろう。「みんなでいっしょにこの子を育てていこう」と若い親を元気づけよう。
・障害があるということの意味。“400人に一人、視覚障害者が生まれる”、ということは一人の視覚障害者は399人の目を守ったのであり、みんなの替わりを引き受けた人。
・周囲の人に優しい心を向けられる人が一番賢い人。疲れた同僚がいたら、声をかけよう。“ただ頭のいい人”は危険人物。爆弾を作るかもしれない。優しい人は優しい家庭で育つ。

今、取り組んでいること

アジアに盲人が自立するための学校を作る。アジアの国々には、まだ盲人のための学校がなく、多くの視覚障害者が路上で物乞いをしている。モンゴルにマッサージを教える学校を作った。卒業生が自活できるようになってきた。インドのキルギス、次はネパールに作る予定。
医療的な処置で目が見えるようになる人もいる。死ぬまでに1000人の人の目を治していきたい。7歳で死んだ子どもに代わって。

 

 

 

 

 

 

竹内昌彦さんを囲んで。左隣は区議会議員の野呂恵子さん