「シベリア抑留」を知っていますか。日本近現代史の中の大きな悲劇「大田平和のための戦争資料展」

今年も「大田平和のための戦争資料展」に出かけました。8月17、18、19日の3日間、下丸子の区民プラザ・展示室での開催でした。

 

 

 

 

 

 

 

資料展の入口

 

 

毎年、充実した調査と展示は心に響くものですが、今年は「シベリア抑留」について「シベリア抑留者支援・記録センター」代表の有光健さんからのお話や展示資料を拝見する中で、戦争のもたらす悲劇を改めて知る機会となりました。

 

 

 

 

 

 

 

兵士着用のコート

 

 

シベリア抑留とは 1945年8月15日戦争終結後の悲劇

第2次世界大戦の終結が迫る8月9日に参戦してきたソ連軍。そして8月15日の終戦日がすぎた8月23日、なんとソ連軍最高司令官スターリンから秘密指令が出され、満州にいた日本軍兵士約60万人がシベリアに強制移送されたのです。モンゴルや黒海の方まで広がる2300以上もの収容所に収容され、ソ連再建のための労働力とされました。炭鉱、ダム、鉄道などの建設現場、工場、農場、鉄道建設のための森林伐採などの厳しい労働がマイナス40℃を下回るような寒さ(中にはマイナス60℃のところも)と食料不足の中で強いられ、約1割の6万人が亡くなったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シベリアでの労働

 
 
大半の捕虜は3~4年で帰国できましたが、一番長い人は11年間もの間、ソ連に抑留され、戦争犯罪者として牢獄で暮らした人もいたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

収容所の様子

 

条約違反のソ連

ポツダム宣言には、「日本軍は武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を与えられる」とあります。ソ連は明らかな条約違反をしていたのです。

 

帰国後もさらに悲劇は続く

帰国後、大半の元抑留者は「共産主義者」ではないかと警戒され、「シベリア帰り」と呼ばれ、仕事につけなかったり、地域で孤立したりしました。「シベリア帰り」に対する差別があったことで、5重苦ともいわれました。

 

解決していない課題

2010年に「戦後強制抑留者特別措置法」が制定され、国が実態解明に取り組むことや追悼するための事業の実施が明記されました。しかし、未だに抑留死亡者としての特定ができていない人が1万5千人、遺骨3万5千柱が未収集とのこと。関東軍が抑留されたことに関して、当時、日本はどういう立場であったのか、もし国が何かのためにソ連に兵士たちを差し出したのであれば国家責任といってもいいわけですが、いつだれの命令で抑留が決定したのかなど、いろいろ論議があり、解明されていないことが多くあります。


 

戦争とはなんとむごいものでしょう。シベリア抑留が国家間の取引や思惑の中で行われたとすれば、兵士や国民はまるで単なる駒としかとらえられていないのです。戦争というものがいかに人権をはく奪するものかがわかります。私たちは歴史をきちんと学び、二度と愚かな道に進むことがないように権力者を見張っていないといけないですね。