“とにかく徹底的に子どもの話を聴いてくれた” 「おおたっ子権利条例をつくる会」勉強会のご報告
川崎子どもの権利条例制定にいたる道のり
~当時、「子ども委員」だった圓谷雪絵さんに聞く~
「おおたっ子権利条例をつくる会」勉強会
2019年6月6日(木)
フリースクール・大田シューレにて
「川崎子どもの権利条例」作成時に、「子ども委員」として関わった圓谷雪絵さんを囲んでお話を伺いました。圓谷さんは現在、子どもの権利条約ネットワークの運営委員。
国連・子どもの権利条例採択は1989年、日本での批准は1994年。2000年に自治体として初めて「子どもの権利条例」を制定したのが川崎市。先行事例がない中で、どのような道のりを経て作られたのか、子どもの意見はどういう形で吸い上げられたのか、など条例作りの参加者ならでは具体的なお話は大変興味深いものでした。
圓谷雪絵さん
●「子ども権利条例調査研究委員会・子ども委員会」の子ども委員として
もともと川崎市では「子ども会議」というものが中学校区ごとにあり、子ども同士が話し合う場がもたれていた。(前身は1994年の「川崎市子ども議会」)。また川崎市の「まちづくり」を子どもの立場から考える事業として1997年から「川崎市子ども・夢・共和国」も開始されており、その流れで「子ども権利条例調査研究委員会・子ども委員会」が発足、学校の案内で公募、30名の「子ども委員」が誕生した。
川崎の場合、「子どもの権利条例策定」は市長の公約、2年間を目途に行政主導で取り組む。当時、子ども会やジュニアリーダー、ボーイスカウトなどが盛んだった時代で、「子ども委員会」では高校2年生がよくリードしていた。子ども委員会の活動は、まずユニセフの資料などから「国連子どもの権利条約」の勉強をし、それから、専門家が作った「川崎子どもの権利条例」の骨子案を検討するという作業が中心で毎回徹底的な話しあいがなされた。
●子どもを優先してしゃべらせてくれる会議
喜多明人さん(現・早稲田大学文学学術院教授・子どもの権利条約ネットワーク代表)、
荒牧重人さん(現・山梨学院大学法科大学院教授・子どもの権利条約総合研究所事務局長、西野博之さん(現・川崎市子ども夢パーク所長)ら専門家と共に話し合う会議だが、驚いたのはとにかく子どもを優先してしゃべらせてくれること、「こんなに話をちゃんと聞いてくれる大人がいる」という感動。「子どもを守ってあげよう」とか「聞いてあげよう」というのではなく、“対等に話をした”という印象の会議だった。
●条例ができたことで変わったこと、変わらないこと
条例制定後に変わったことは、子どもたちの活動拠点や居場所になる「子ども夢パーク」ができ、市長に子どもの意見を直接提言できる「川崎市子ども会議」が開催されるようになったこと。しかし子どもの声を聞く体制があることと子ども自身が“権利は自分のもの”“権利を行使する存在である”ことを自覚できることが重要。
最近、川崎市は「ボール遊び禁止」の看板を撤廃した。その代わりとして「禁止はなるべくしないように、地域で話し合ってください」というお知らせがあった。地域ごとで差が生まれるかもしれないとの懸念がある。
●「おおたっ子権利条例をつくる会」へのアドバイス
“国連・子どもの権利条約”の精神が守られているかということに視点をおき 注視して、子ども用のパンフレットを作って学校で配ることや母子手帳に記載することを提案するなど、周知を勧める。
●生まれながらに「人権」がある
「何の義務も果たしていない子どもに“権利”を与える必要はない」という人がいるが、赤ちゃんは何か義務を果たすから、おっぱいをもらえるか。笑ったら、おっぱいをあげるよ、と条件をつける親がいるか。はじめから「生きることは人権」であり「育つことは人権」。
圓谷雪絵さんを囲んで
圓谷さんのお話はとても具体的でイメージが湧くものでしたものでした。私の抱いていた疑問は、“会議というものはそもそも子どもにとって楽しいものだろうか。子どもがちゃんと参加するのだろうか”というもの。圓谷さんが応えてくれたのは「子どもの話をこんなにも聴いてくれる大人がいるのか」という大人の姿勢への感動。「こんな大人になりたい」というあこがれも抱いたそうです。その誠実さが貫かれていたからこそ、延々と続く会議に子どもたちが参加しつづけていたにちがいありません。その時の感動が圓谷さんを「子どもの権利条約ネットワークの事務局長」の役目を果たすことにまでにつながっているのかもしれません。
子どもと向き合うときの最も大事な姿勢、“社会を創っていく対等なパートナーである”という観点を心に刻むことのできた懇談会でした。