「夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年」 上映&シンポジウム in おおた12月22日

精神障害者への社会のまなざしを問う
「夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年」
上映&シンポジウム in おおた  

12月22日 東京工科大学にて

主催:「夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年」
上映&シンポジウムinおおた実行委員会

 

記録映画「夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年」

呉秀三は明治大正期に精神障害者の処遇改善に尽くした精神科医。巣鴨病院医長時代、オーストリアとドイツに留学。欧州における精神病患者を人として尊重する思想に触れ、帰国後すぐに「拘束具」を廃止する。しかし国内では欧州とは逆行するかのような精神病者監護法が1900年に制定され、家族に「私宅監置」を課し、患者は劣悪な環境に置かれる。呉秀三は社会の偏見と国家の無責任を問うために、私宅監護の調査を実施。足枷、手枷、布団巻きや隔離室の実態を世に出す。「我が国十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」という言葉を残した。しかし現在の日本も病院監置で、拘束具も使っており、しかも増えてきている。やまゆり学園事件なども社会の精神障害者へのまなざしを問うものといえないだろうか。この国は「夜明け」になりえているのか。(監督 今井友樹)

 

 

シンポジウム

・山田悠平さん(大田障害者連絡会、精神障害当時者会ポルケ、それぞれの代表)
日本の精神病院における長期入院、身体拘束、また本人の意志を確認しない措置入院は問題。自分自身、幻聴や気分の浮き沈みがある精神障害当事者だが、障害のあることで出会った人もいるので、必ずしも不幸ではない。医療者、世間全般の意識を替える必要がある。
映画の最後の「この国は“夜明け”になり得ているのか」という言葉が印象的。

・川崎洋子さん(大田区精神障害者家族連絡会代表)
病院での拘束は問題。拘束されると悪化するので改善するべき。薬のおかげで地域生活できる人が増えている。精神障害の子どもを持つことで、家族がバラバラになることがある。社会の偏見により姉弟が結婚できなかったり・・・家族がまとまれなくなる。家族が「だいじょうぶ」と周りにいう勇気を持つことが大事。当事者と当たり前に出会える場が必要。

・越智祥太さん(南晴病院10年隔離拘束なしの運営。現在、横浜ことぶき共同診療所勤務)
この記録映画は医者目線なので、家族の声や当事者の声をもっと聞きたい。呉医師は精神病患者に人として対応することを徹底させた人道主義者、責任感のある人。偏見のある社会や国への批判を恐れずしている。現在、多くの精神病院では拘束や電気ショックも当たり前に行われているが、なくせるはず。現場対応だけで思想がないと危ない。日本は事件が起こると個人的な問題にしてしまうが本当はシステムに問題がある。明治以降、産業優先社会。今も防衛費にはお金をかけ、福祉は縮小。病院は組織で動くので、なかなか変われない。外圧が必要。

 

 

 

 

 

 

 

パネリスト
左から越智祥太さん、川崎洋子さん、山田悠平さん

 


 

記録映画の中では、明治大正期の非人道的な「監置室」が映し出され、ショッキングでした。しかしその暗い歴史が過去のものではなく、精神障害者を取り巻く思想的な環境は今も変わっていないとの報告(拘束・措置入院等)を受け、この国の「人権思想」はどこにいってしまっているのだろうと考えます。
越智先生が「明治以来の産業化」という言葉を使われていましたが、なるほど富国強兵をめざす経済性、合理性、効率性を追い求める価値観がこの社会を覆い尽くしている中では、精神障害者をこの社会とは別の枠組みの中に押し込めてしまうためのもっともらしい理由を作りあげるにちがいありません。兵頭晶子さんと山田悠平さんの対談資料にある“「自傷他害のおそれ」という「未然の危険」を防ぐためとして、強制入院へと至る回路が開かれてしまう”という言葉に見るように。人に向き合う、人に聴く、というプロセスはすっ飛ばしてしまう現実、むろん基本的人権も。
個々の人間を理解することと精神病を理解することは同じ地面に根ざしていると考えるべきではないか。私たちの問題として。どこにも完璧な人間はいないし、完璧な社会もないのだから。強要された富国強兵文化がまだ続いているのだとしたら、国民的に問い直していかなければならないのではないか。本当はもっと共生型の優しい国民性のはず。
心に深く刻まれる映画とシンポジウムでした。

 

 

 

 

 

 

 

会場の東京工科大学3号館、玄関のクリスマスツリーの前で