子どもの主体的な好奇心「学びの原点」を大切に

「考えること」を面倒くさがる子ども、
すぐに答えがでないとイライラする子どもが増えている

 
ある塾の先生が言っていました。今の子どもたちはすぐにスマホで答えを出せる経験をしてきているから、「考える」ことをめんどうくさがる、わからないとすぐにイライラすると。
仕方がないので、塾の一環に「将棋」を入れて「考える」ことを訓練することにしたとその先生は言っていました。私たちは子どもにすぐに答えを与えてしまう社会、「考えること」をさせない社会を作ってしまっていないでしょうか。

 

刺激の強いスマホの映像の影響

小さいうちからスマホに触れて、見たいアニメがすぐに見ることができる、刺激的な映像に目が奪われるということが習慣化したら、主体的に求めて見出す経験や待つ経験、その子ども自身の感性が広く世界に向けられることを阻害するのではないか、と心配になります。

 

好奇心が学ぶことの原点

本来、子どもは出会ったものにその子どもなりの感性で「どうしてだろう」「これは何かな」と疑問を持ち考え、興味を深めていくものです。時間を忘れて砂をいじったり、蟻を追いかけたりするものです。好奇心が「学ぶこと」の原点、「主体的に生きる」原点と言えるのではないでしょうか。

そばにいる大人は子ども自身の心が動く時間を保障し、いっしょに感動したり、笑いあったり、不思議がって、「世界への好奇心」を共有することが肝要です。

私が幼稚園で働いていた時の経験です。都内ではめずらしく自然環境に恵まれた幼稚園でしたが、たまたま引っこ抜いた植物の根っこがとても長くて驚いていたS君、次々にいろいろな植物を引っこ抜き、その根っこを並べて見入っていました。おそらく土の中の世界に思いを馳せていたのでしょう。S君が自然科学系の博士課程に進んだと後にお母さんから報告をうけましたが、知りたいと思ったことをとことん追求していく学ぶ意欲は幼児期から培われていたにちがいありません。

 

子どもの発想と会話を楽しむ

この世に生まれてからの歩みが間もないからこそ、物事の本質をまっすぐに問う子どもの感性。その発想はかわいいだけではなく、本質を言いえている場合が少なくありません。スマホに育児をさせないで、子どもが自分なりの感性で夢中になることを応援し、子どもとの会話を楽しんでいきたいものです。

 


ある小さな子どもとパパとの会話

「なんのため」

ねえ、パパおしえて
「目はなんのためにあるの」
「どろぼーが入ってきた時に見つけるためだよ」

「口はなんのためにあるの」
「どろぼーって叫ぶためだよ」

「耳はどうしてあるの」
「パトカーが来た時にすぐわかるだろ」

「そうか、パパってすごいね。何でも知ってて」

それじゃあ、こんどはパパが聞くよ。
「足はなんのためにあるの」

「うーん、水たまりの中であそぶためにあると思う」

「お尻はなんのためにあるの」
「すべり台でシューするためだよ」

「鼻はなんのためにあるの」
「鼻くそをとるためだよ。きまってるでしょ」

 


『あなはほるもの おっこちるとこ』

ちいちゃい子どもたちのせつめい
作:ルース・クラウス、絵:モーリス・センダック、訳:わたなべしげお

 

あなはほるもの おっこちるとこ―ちいちゃいこどもたちのせつめい (岩波の子どもの本)

 

という絵本に刺激を受けて、子どもとの会話をまとめたものです。


年少さん(3歳児)にインタビューから

目はどうしてあるの?
「ぶつからないため」

鼻はどうしてあるの?
「はなをかむため」

口はどうしてあるの?
「しゃべるため」

手はどうしてあるの?
「食べ物をたべるため」

足はどうしてあるの?
「キックするため」(サッカーが大好きな子どもです)

頭はどうしてあるの?
「考えるため」「脳みそが入っているから」

おしりはどうしてあるの?
「うんちするため」

大人ってなあに?
「子どもを守る人」