「武蔵小山商店街」がまるごと「満蒙開拓団」なって満州に渡っていたこと、ご存じでしたか?

毎年、必ず見に行くのがこの資料展です。

第35回
大田平和のための戦争資料展
戦争への道は足元から 若者たちの明日は?

2014年8月15日(金)~17日(日)
大田区民プラザ(下丸子駅前) 地階 展示室 

戦時中の生活を偲ぶ数々の品物、軍服やゲートル、紙でできたランドセル、当時の教科書・・。たくさんの写真や証言の記録。 いつも、“本当にこれが現実だったのか”、と呆然としてしまいますが、「なぜこんなことになったのか」と考え続けていくことはとても大事であり、いつの時 代にも通じる「危険な芽」を見抜くためにもこの資料展を多くの若い人にもぜひ見てほしいと願うものです。

 

 

 

戦争資料展開催にあたって

 

従軍慰安婦・集団的自衛権、さまざまなコーナーがありますが、「東京の満蒙開拓団」のコーナーからのご紹介。

「満蒙開拓団」

関東軍が1931年に満州事変を起こしてつくった国家の「満州国」(現中国北東部)。日本の支配を確立するために政府は32~45年まで移民を送り続けました。その数27万人。東京大空襲の被災者も「疎開」のために移民を勧められました。

新 天地を求めて行ったものの待っていたのは、先住民から奪った土地と過酷な生活。敗戦後は軍隊からは置き去りにされ、ソ連軍侵攻。集団自決などの死者7万2 千人、残留孤児・婦人1万1千人、間際に召集された人はシベリヤに抑留された人も多くいました。悲惨な逃避行、生き残っても、日本に帰る船はなく、現地に 残るようにといわれ、「開拓は棄民としか思えない」という体験者の声。

満蒙開拓団といえば、長野県や山梨県の貧しい農村から多く送り込まれたとされていたことがよく知られています。

 

 

 

 

多くの資料が展示されている


「東京満蒙開拓団」「失業者、次いで転業者を」

し かし、実は東京からも送り込まれていたのです。29年の世界恐慌の影響での失業者が東京にはあふれており、その生活から救出しようという社会事業家たちの 働きが“満州移民に利用しようという国策”にからみとられたそうです。「にわか農民」に仕立てるため、大田区には、「多摩川農民訓練所」のほか、鵜の木、 下丸子にも3か所の施設と多摩川河川敷に実習農場も作られていたそうで、当時の写真が残っていました。
失業者に次いで、転業者が標的にされたそうです。

「転業者」のうち、最大の開拓団の組織が、「武蔵小山商店街」「荏原郷開拓団」だったということです。東京品川の武蔵小山商店街ぐるみの1000人以上が開拓団として海を渡ったという話はあまり知られていないのではないでしょうか。


それまで商売をしていた人たちがなぜ

当時、軍需産業優先経済によって、商店・零細企業が廃業に追い込まれて、多くの離職者がでました。当時の募集要項には「大勢の商業者は不要です。(中略)転廃業者は工場で武器を造る、あるいは食糧を作るか、道は唯2つあるのみです」。

「なべ・かま」を作らなくなったということと配給制で商売が成り立たなくなった商店街、希望を託して満州に移民したものの、想像を絶する悲劇に見舞われます。

この国策の実態からは、悲しいかな、国という「権力」が“国民を守ろうという意思”を持っていないことを知ることができます。国が何をしようとしていたのか、しっかり見つめることが必要ですね。

この史実を市民団体が調査をして1冊の本にまとめています。

東京満蒙開拓団 (ゆまに学芸選書ULULA5)
(2012/08/25)
東京の満蒙開拓団を知る会

商品詳細を見る

これは展示の中の一つですが、今年も胸に迫ってくる展示の数々でした。


中国との文化交流

展示会場の奥には、「書」がたくさん展示されていました。区内に住む金沢翔子さんの書もすばらしいものでしたが、中国の書道グル―プから送られてきている「掛け軸」も目を引きます。中には、東日本大震災のお見舞いとして、送られてきているものもあります。
美しい「書」の世界のルーツは中国。仲良くなれないはずがありません。

 

 

 

金沢翔子さんの「書」

 

 

 

中国の書道グループからの寄贈の掛け軸