江戸無血開城への道筋には、一人の女性が  やさしさと強さ・蓮月尼のうた

江戸を火の海から救ったのは、西郷隆盛や勝海舟だけではなく、蓮月という一人の女流歌人の力もあったことをご存知でしょうか。

西郷への直訴

「あだ味方 勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」
「うつ人もうたるる人も心せよ 同じ御国の御民ならずや」

江戸に下る西郷に三条大橋で蓮月が手渡した短冊にはそう書かれていました。和歌に託した切なる思いに、西郷は心を動かされたのです。大津の軍議で、諸将にこの和歌を示したといわれています。


幕末から明治初期に京都に生きた、大田垣蓮月。
寛政3(1791)年に生まれた蓮月は、その出生から薄幸の生涯といえる人生の中で、清らかな和歌を詠み、後世に影響を及ぼしました。
美智子さまの書道の先生でもあった、かな書道家・熊谷恒子も蓮月の和歌を好んだそうです。この度、馬込にある「大田区立熊谷恒子記念館」にて、「蓮月尼のうた」という、蓮月の歌を題材とした熊谷恒子の書を中心にした展覧会が開催されます。(4月29日~8月20日)

この折に苦難の人生を清貧高潔に生きた大田垣蓮月のことをご紹介いたします。

・蓮月の出生と子ども時代

京都の大火で多くの大名屋敷が焼かれ、都普請に各地の武家が上洛していた世のこと。伊賀上野の城主、藤堂金七郎が、屋敷の再建のために京都に通ううちに花街の芸子との間に子どもが生まれる。それが蓮月であり、金七郎は、知恩院の寺侍に託す。蓮月は容姿が美しいばかりか、武芸、舞、和歌、裁縫、学問、全てに秀でた才能を持った。

・家族を失い続ける悲しみ

蓮月、二度の結婚をするがそのたびに夫にも子どもにも先立たれ、悲しみの中、三三歳で出家する。しかし静寂に暮らしたいと願っても、蓮月の美貌は男性を惹きつけ、そのため蓮月は醜くなることを望み、眉を抜き、あげくは歯を抜く。自分の美が損なわれることをひたすら望んだ蓮月は“手が荒れる”(江戸時代、日本人は手指に女性の美を見ていた)土をこねて陶器を作る仕事を始める。急須や茶碗、花入れを作って、和歌を刻んだ。次第に「蓮月焼き」は人気を博す。

・幕末の戦乱に心を痛める

蓮月は飢饉の折には救い米の足しにと30両(今では1千万円)献金し、また10年の歳月お金をためて、鴨川に橋をかけた。鳥羽伏見の戦い、官軍勝利の報は蓮月に「このまま国の中で人が殺し合うようなことになってはいけない」という思いを強くさせ、西郷への談判を思いつく。

・維新後の蓮月

江戸城無血開城を成功に導いたのは蓮月の無心なそしてまっとうな感覚だったのではないだろうか。維新の世になると彼女のもとには、競って殿様も訪問する。加賀の前田候、長州の毛利候も。殿様が来ても、蓮月はいつもと変わらず、渋茶を入れる。七十をすぎると死に支度をして、棺桶を用意し、それを米櫃にしていた。貧しい人が亡くなるとその棺桶を与えたので、蓮月はいくつ棺桶を買ったかわからない。
 

明治8年12月10日に85歳で亡くなる。墓は京都知恩院。

時世の歌
「願わくは のちの蓮の花の上に 曇らぬ月をみるよしもがな」

参考「無私の日本人」磯田道史・文春文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※プレスリリースより