特攻を知っていますか? ほんの73年前に本当にあった話  ―知覧特攻平和会館にて

研修が鹿児島であったので、かねてから行きたかった「知覧」を訪れました。

 

知覧特攻平和会館

 

鹿児島中央からは指宿枕崎線に乗り平川で下車、そこからは鹿児島交通バスで30分ほど行かなくはなりません。

第2次世界大戦の末期、戦況の悪化のため、沖縄に向かってパイロットが飛行機もろとも敵艦に体当たりするという攻撃を行い、1036名の青年たちが戦死しました。この「特攻隊」は22の飛行場から出撃しましたが、知覧からは本土最南端ということで最多の439名が飛び立ったということです。

 

 

 

 

 

 

 

一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲をモデルに復元されたもの

 

最初は陸軍飛行学校の分校として開設されましたが、風向きや地質条件、交通の便から特攻基地となったのだそうです。兵士はみんな国のために戦うと志願してきた若者です。

 

 

 

 

 

 

1980年に引き上げられた旧海軍の零式艦上戦闘機52丙型

 

資料館には凛々しい青年兵士の遺影が延々と並び、遺品、そしてたくさんの遺書や手紙が展示されていました。17歳~30歳までがほとんどで一番年上でも32歳だったそうで、多くの手紙は母親宛て、家族宛てで、中には、幼い子どもに宛てている手紙や恋人に宛てている手紙もありました。

それらは実に達筆で、文章は感性豊かで、しかし礼儀正しく抑制的、気高く美しい文語体で、一つ一つの手紙に見とれてしまいます。そうかと思うと母親への思いは、ほとばしる感情があふれる言葉になっています。死を前にして多くの若者が思うことは育んでくれた母のこと。

「お母さん、お母さん、母はいい。母ほど有り難いものはない。母!母!」
「お母さん、お母さん、今、俺は往く。母を呼べば母は山を越えてでも雲の彼方からでもはせさんじる」

若者の純粋な国を思う心、親を思う心を載せて飛行機は旅立ち、たちまちのうちに撃ち落とされていったのです。ほんの73年前に本当にあった話。日本には資源がないから、資源を得ようと侵略を考えて始めた戦争だと語り部が話してくれました。大義なき戦争に消えていった何千の命。

 

 

 

 

 

 

 

三角兵舎(特攻隊員の宿舎)
松林の中に半地下壕に作られており、屋根には杉をかぶせていた

 

 

 

 

 

 

 

内部

 


戦争の悲惨さを忘れてはならないと再確認する旅でした。
そして、やはり戦争の反省に基づいて作られた「憲法」は大切にしなければ、と。

 

 

憲法の勉強会のお知らせです。

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