“リスク回避”が子どもの大切な学びのチャンスを奪っていないか

人間関係が希薄になってきている時代だからこそ

小さなことかもしれませんが、気になっていることです。
子どもたちが“学校内で名札をつけないこと”について、考えてみました。

 

大田区議会、決算特別委員会が終盤になってきました。私は10月5日、教育費のところで質問に立ちました。ここでの持ち時間は12分。この短い時間に一問一答で理事者(行政)とのやりとりをするのですが、時間配分が難しく、後半に用意していた質問が十分にできなかったのでここに書き残しておこうと思います。理事者(行政)の答弁は次回、全体の報告のときにご報告いたします。以下です。みなさんはどう思われますか。


 

今の子どもたちは十分に遊ぶ空間も時間もなく、そのせいで集団の中でもまれること、ケンカをしたり、謝ったり、許したり、人間関係の様々な経験が少なくなっています。結果、悩み相談ではどこでも「人間関係について」が最も多くなっています。人を傷つけることに鈍感だったり、傷ついたときになかなか立ち直れなかったりすることがあるのではないかと考えます。核家族化や近隣との親しい付き合いがなくなってきていることも原因でしょう。学校においては、「人間力」を養うのであれば、できるだけ密な、トラブルも含めた人間関係や感情体験から共感性や問題解決能力を養うことが今の時代、特に必要になっているものと考えます。

その観点から“リスク回避と子どもの現代的な課題”との関係について質問いたします。

昨今は個人情報保護にとらわれるあまり、共助や協力体制の取り方がぎくしゃくしてしまうということをよく聞きます。リスク回避はもちろん大切なことですが、行き過ぎたリスク回避は、子どもたちから学ぶ機会を奪うことにもなるのではないかと考えます。

現在、学校では、子どもたちは名札をつけないのが一般的だと聞いていますが、それは外部の人間に名前で呼びかけられて子どもが誘拐された事件に端を発するものだと聞いております。確かにそういう危険性があるので、登校・下校の際に外すのは理解できますが、学校内でも名札を付けないことは、友だち関係を広げたり、深めたりすることに支障とならないでしょうか。人への無関心、小さな自分のまわりの友だち関係しかつくれないなど、社会性を育む上での支障はないでしょうか。同じ学年なら覚えられるとしても他学年の子どもの名前まではなかなか覚えられないにちがいありません。せっかく異年齢の子どもたちが集まっている場です。積極的な関係を築くためにも名札は必要だと考えます。

最近、聞いた話では友だちを棒でぶっている場面をみつけた子どもが「そんなことしたらいけないんだよ、先生にいっちゃうよ」というと「どうせ、おれの名前はわかんないだろう」と返されたそうです。匿名性でなんでもできてしまうという方法を低学年の子どもがもう利用しているわけです。正義感のある子どもが、しゅんとなり、あきらめてしまう、「どうせ何もできないならこれからは見て見ぬふりをしよう」となったらどうでしょう。SNSで匿名性を利用しての陰湿ないじめが問題になっていますが、現実的な経験の中で倫理観・道徳観を育くんでいくこと、正義感を発揮できる教育現場であることを望みます。

また名札がないことで、教師も自分のクラスの子ども以外には声をかけにくくなっているということはないでしょうか。子どもは担任以外の教師から声をかけられて、褒められたり、注意されたりすることがあまりないのではないでしょうか。教師間での情報共有ができにくくなっているということはないでしょうか。区内には1000人の児童を要する小学校もあります。全ての子どもの名前を教師が覚えるのは困難でしょう。

お互いの名前を知って積極的に交友関係をつくること、匿名性による無責任な人間関係を排除するためにも名札を付けることには意味があると考えます。

お聞きします。何か事件が起きて予防的にとられる措置で、子どもの大切な学びのチャンスを奪うことがあるかもしれません。教育の場ですから、名札のあるなしが、子どもの学びにどう関わるかしっかり考えて検証することが必要ではないでしょうか。いかがですか。

 

本当のリスク回避とは、嫌なことは嫌と言えることで、主体的に考えて行動できる子どもを育てることが大事なのではないでしょうか。

生きる力と育む教育とリスク回避とのバランスは難しいかもしれませんが、クレームに振り回されることなく、子どもにどういう力が必要なのか、保護者にも伝えられる、教育現場の主体性が問われるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

*写真はイメージです