私はただ私として生きていたかった 不登校の子どもの権利はどこまで前進したか
9月20日、早稲田大学戸山キャンパスで行われた子どもの権利条約ネットワーク主催の「子ども権利条約連続講座」に参加しました。
子どもの権利条約連続講座 第4回
【子どもの権利条約採択30年・日本批准25年
日本の子どもの現実‐何が変わったのか!?】
講師:奥地圭子さん(NPO法人東京シューレ代表)
奥地さんは1985年に、不登校の子どもの学びの場「東京シューレ」というフリースクールを立ち上げました。4年後には国連で「子どもの権利条約」が採択され、その5年後には日本も批准しました。不登校をめぐる状況の変化と、子どもの権利をめぐって、どのような進展があったのかが報告されました。
奥地さんのお話のタイトル
●不登校をめぐる状況の変遷
1970年代、学歴偏重、競争の教育、管理教育の傾向は、「学校が苦しい・合わない」という子どもを増加させた。しかし当時は、不登校を“病気、なまけ、子育ての失敗、弱い、甘え”ととらえ、学校に戻そうとする圧力、あるいは精神科への入院、矯正施設に入れられるなど、子どもたちはますます追い詰められた。
1980年代、「学校へ戻す」ことの間違いに気が付いた親たちが「登校拒否を考える会」を発足、親の学び合い、支えあいが生まれる。学校以外の子どもの居場所の必要性から「東京シューレ」開設。「子どもの側に立って考える」「子どもを受けとめる」「学歴社会の価値観を変える」という動きに展開する。やがて当事者の子どもたちによる行動「私たちの人間宣言」や「病気や怠けではない」との表明がなされる。
1990年代、全国ネットや東京シューレの拡大、当事者の子どもたちの活動は、国会、文部省を動かし、「登校拒否はだれにでも起こりうる」という視点が生まれ、フリースクールに通うための通学定期券が実現する。在宅支援活動「ホームシューレ」が開始、子ども若者編集部による「不登校新聞」も創刊される。
2000年代、世界のフリースクール大会が日本で開催され、フリースクール全国ネットが誕生する。「子どもの権利条約」を基軸にした創作劇「私が私であるために」を上演。いじめやいじめ自殺の取材や集会の開催。子どもたちが自発的に「権利条例」を学習し、「不登校の子どもの権利宣言」を作る。東京シューレ葛飾中学校開校、フリースクールの公教育化、学ぶ権利が拡大する。
2010年代、当事者の発信力が増し、映画の創作や「不登校の権利宣言を広めるネットワーク」の活動、3・11以降の東北支援等が行われる。いじめ・いじめ自殺の社会問題化、様々なオルタナティブ教育の展開も相まって、新法「子どもの多様な学びの機会を保障する法律」を実現するための取り組みがはじまる。2016年、「不登校は問題行動ではない」という全国通知、※「普通教育機会確保法」成立。公民連携が進み始める。2019年世田谷区委託事業「ほっとスクール希望が丘」学校復帰でない適応指導教室(親の負担はゼロ)が開始。
不登校をめぐるこの50年は当事者が声を上げたことで社会を少しずつ変えてきた歴史だということがわかりました。しかし今も中学生の不登校は14万4千人で過去最高、不登校傾向の中学生は推計33万人(日本財団発表)といいます。「普通教育機会確保法」は成立したものの、日本にはまだ「学びを選ぶ権利」も学校外で学ぶ子どもへの経済的支援も社会的位置づけもないのです。
講演の最後に「『不登校の子どもの権利宣言』から10年」という東京シューレの子どもたちの作った映像の上映があり、多くの不登校の子どもたちの声がちりばめられています。子どもたちが不登校を通じて、自分を見つめ、どう生きていこうか、自分の道を深く考え、探っていく過程の意義を教えられます。大人の考えた枠に閉じ込めるのではなく、“自分自身の権利としての「学び」がしたい”という叫びにも聞こえました。映像を作った青年の一人が「私はただ私として生きていたかった」と語った言葉が印象深く、これこそ大事なことだと感じます。
「『不登校の子どもの権利宣言』から10年」という映画を作った青年たちと
教育の、本来めざすべきものは何か、そして子どもたちの学ぶ権利をどう獲得していくか、この課題をかれらと共に取り組んでいきたいとの思いを強くしました。
子どもの権利条約採択30年、日本批准25年、「子どもの権利条約」を「子どもが幸せになるための道具です」とだれもが言えるほどに日本中に周知が進むことを願うものです。
※義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律
奥地圭子さんと