社会課題を解決する力、論理的思考を育てるには ~学校のルール、校則の功罪~
スウェーデンのグレタ・トウンベリさんは、地球温暖化を世界中に警告し、多くの人がそれに呼応した。人を説得させる力は子どもの頃から、社会課題の現状を学び、何が問題で、どう解決すれば良いか、科学的論理的思考を養うことにあるのではないだろうか。もちろん同時に彼女自身の強い意志と確信があって、目標をしっかり描いているからこその行動にちがいない。
さて、学校のルールや校則について、考えさせられることがあった。たとえば昨年の2月頃、新型コロナウィルス感染予防のために、学校にマスクを付けていかなければならないとなったとき、「白いマスク」に限定され、とても困ったという学生の声を聞いた。その当時はマスク不足が問題になっている時で、どうしても白いマスクが手に入らず、何日も同じマスクを使ったり、医療用のブルーのマスクを手に入れることができたが、ブルーではだめ、裏返しにするようにと言われて裏返して使ったが、府に落ちなかったという学生の言葉だ。
また寒くなって暖房の季節になったが、コロナのことがあるので、窓を開けていなければならず、寒くて勉強に集中できない。学校のルールは白いソックスだが、女子生徒はスカートなので寒い。タイツを認めてほしい、と言っても「ルールはそう簡単に替えるものではない」という学校だよりが出てしまう。男子の中にもズボンであっても寒いという訴えもあり、「膝掛け」を認める学校もあったようだが、学校の対応は様々だったようだ。
学びは教科だけではなく、全ての経験が学びだと考えるとき、生徒が納得できないルールに囲まれて育つことは、合理的な思考、科学的論理的な思考を阻害することにならないだろうか。また“訴えても無駄だ”ということを経験することは民主的な社会を築く当事者性、主体的な生き方を学ぶことを阻害することにならないだろうか。
飛沫感染を防ぐ目的でマスクは必要なのだから、マスク不足の折、せめて華美にならないように「原則は白」くらいの方法にできなかったのか。勉強をするための適切な教室の温度は何度なのか、調査はしたのか。もし窓を開けることで温度が低くなっているのなら、タイツや膝掛けを認めるべきではないだろうか。コロナウイルスは憎くても、生きた学びのチャンスはいろいろあったのではないか、と思う。
ルールや校則にとらわれるあまり、本来の目的、子どもたちの健康を守り、勉強ができる適切な環境を用意するということをおろそかにしてはいないか。
新学習指導要領では「アクティブ・ラーニング」(主体的・対話的で深い学び)が求められている。様々な場面において「なぜそうするのか」を主体的に捉えることができるように、そのためには最上位の目的を学校全体で確認していくという作業が必要ではないだろうか。
日本では、グレタ・トウンベリさんのような、世界に向けて社会課題を提示し、その解決に向けて行動を起すような子どもを育てることができるだろうか。